・・・2019年1月12日(土) 午前10時半頃
晴れ、東京都内某所。
IT系サラリーマンである私は普段の運動不足を解消する目的で、毎週土日のどちらかはスポーツジムに行っており、その日も都内のあるジムに自転車で向かっていました。
ジム前には必ず近くのセブンイレブンで水とサラダチキンを買う習慣があり、その日もセブンイレブンに立ち寄って、飲み物のコーナーに立ち入る直前、ふとiPhoneの画面をみると、
「不在着信2件あり」と共に母親の番号が1件
「メッセージあり」というお知らせが2件
合計3件のお知らせが表示されていました。
母からの突然の連絡
一人暮らしをしている自宅の電波が非常に悪いこともあり、自宅では常に機内モードでwifiしか使っていない私からすると、機内モードを解除した瞬間に母親から朝早く連絡がきていることは頻繁にあり、この日もなんとなくメッセージを開きました。
※ 当時のやり取りのスクリーンショット
時差式なのか、最初のメッセージを受け取った、1~2秒後に
※ 当時のやり取りのスクリーンショット
メッセージを見た瞬間の数秒の間に、様々なことが駆け巡りました。
その結果、何も考えずに送ったメッセージがこちらです。
※ 当時のやり取りのスクリーンショット
機内モードを解除して、母親から父親が倒れたというメッセージを受け取り、返信するここまで、
およそ10 ~ 15秒
だと記憶しています。
メッセージを送った瞬間、メッセージでは話が遅いと思い、すぐに電話を折り返しかけ直しますが、繋がりません。
かけ続けること3回目、ようやく出ました。
話した内容は明確に覚えてはいませんが、2~3分、以下の内容で母親と会話しました。
聞きたいことがたくさんあり、何も考えず頭にポッと出てきた事を聞いてしまいました…
ということで一旦電話を切りました。
電話し終わり何を思ったかわかりませんが、すぐに支度をして帰る、ではなく一旦連絡が来るまでジムに行こうとそのままジムに行きましたが、
緊張や不安でトレーニングどころではありませんでした。
そこから30分ほど経過した正午前、母親から一通のメッセージが届きました。
※ 当時のやり取りのスクリーンショット
LINEを開き、すぐに姉にメッセージを送ります。
※混乱していたのか、ここでも緊急性の伝わらないワードを送っていました。。。
故郷にすぐ帰省
最初の連絡を受けてここまで1時間弱、実際の時刻にすると11時30分頃。
脳梗塞と診断されても、どれぐらいの重症度かはわからないままで、いまだにMRIの結果の連絡を待っている状況でした。
しかしながら、ジムでトレーニングしている場合ではないと今更気づき、急いで自宅へと自転車を漕いで帰ります。
私の実家は東北地方にあり、帰省するのに4時間超かかるということもあり、急いで帰省の準備、カバンに荷物を詰め込んで、そして新幹線に乗るために上野駅に向かいました。
上野駅に向かう途中、すぐに友人に謝罪のメッセージを入れ、上野駅から東北新幹線に飛び乗りました。
幸いにも自由席はガラガラで席に座ることができたのだが、、、
新幹線での3時間弱は、正直気が気ではなく、もちろん一睡もできずに以下のようなキーワードをGoogleに打ち込みまくり、ひたすら検索します。
「父親 脳梗塞」
「脳梗塞 重度」
「脳梗塞 リハビリ 期間」
「脳梗塞 症状」
「脳卒中とは」
「脳梗塞 後遺症」
「右脳 脳梗塞」
「脳梗塞 原因」
.
.
.
結果として脳梗塞に関する、一般的な情報や家族として今後どうするべきか等の以下のような情報にたどり着きました。
- 2019年1月現在で日本人の死因2位
- ただ以前は死因1位をキープしていたこと
- 軽度のもの、重度のものがある
- 軽度でも重度でも恐らく身体麻痺が出る可能性が高く、リハビリが必要
- リハビリ次第で動かせる部分もかなりある。
そうこうしているうちに新幹線は最寄駅に到着し、病院まではタクシーで20分前後です。
雪がちらつく中、駅の目の前の道路でタクシーを捕まえることができ、病院へと急いで向かいます。
病院到着後、すでに母と姉は集中治療室専用の待合スペースで座って待っていました。
父親は意識があるということで、私・母・姉の3名で、すぐに集中治療室に入れてもらうこととなりました。
ICUで父との対面
治療室に入室し、すぐにベッドに横たわる父親と再会したが、とてもショックを受ける姿でした。
脳梗塞の影響で、体が麻痺している模様、顔も右側が麻痺しており完全に歪みきっていましたが、
脳の任地機能的には影響がなかったのか意識はハッキリしていて、私が到着したことや話の内容に関しては通常の人と変わらない、意識の状態レベルとしては至って普通の父親でした。
しかしながら顔が麻痺しているせいか、言葉をうまく発することができないようで何を言っているかを聞き取るのに非常に時間がかかりました。
父親にはまだ病名が伝えられていない模様で悟られないように、こんな会話をしました。
コミュニケーションが取りづらいことを除いては、幸いにも少し会話することができたのが救いでしょうか。
その後数分ほど会話し、担当医から現在の容体や今後の予想される懸念点などを直接聞くこととなりました。
母、姉は既に担当医師からの話は私が到着する前に聞いており、「息子さんがいらっしゃったら、もう一度説明します。」と伝えられていたみたいです。
ここでの会話も一文一句明確には覚えていませんが、以下のような会話だったと記憶しています。
MRIで撮影した画像を見せながら。
直接的には言いませんでしたが、つまりは「壊死した脳が膨れてきて、死んでしまう可能性が高くなる」ということです。
この辺に関しては、事前に聞いていなかったみたいで「開頭手術で、かつ頭蓋骨も半分切り出してします」という衝撃的な内容に母や姉にも迷いが見えました。
私も「そんなことして一時的に命を取り留めた後の穴の開いた頭蓋骨はどうするんだ?」などと一瞬頭をよぎりました。
という流れで、いざという時は病院の判断ですぐに手術を実行してもらうことをお願いしました。
そのような事務的な話も終わり、集中治療室内にある医師室を出ましたが、集中治療室に他の緊急を要する患者さんもいるため、ずっとそこにいるわけにはいきません。
母、姉、そして私を含む全員が突然のことで精神的に疲れていたこともあり、その日は帰宅することとなりました。
そして長いような短いような、人生で初めて感じる8日間の闘病生活が始まったのです。