こうして家族として8日間の父親の闘病生活が意図せず始まってしまいました。
※ 当記事は、こちらの記事の続きです。
・・・2019年1月12日(土) 午前10時半頃 晴れ、東京都内某所。 IT系サラリーマンである私は普段の運動不足を解消する目的[…]
管理人Shinotoのプロフィール
ここで簡単に私のプロフィールを紹介させてください。
出身はある東北にある片田舎、人口は3万人強で、おそらく容易に想像していただけるドラマや映画に出てくるような田舎の光景で生まれ育ちました。
年齢は、父が脳梗塞を発症した2019年時点で25歳です。
18歳で地元から上京し、大学を卒業、現在は東京の小さいIT系企業に勤務しています。
詳しいプロフィールは、こちらの運営者紹介からご覧ください。
父親のプロフィールと脳梗塞の度合い
合わせて簡単に父親のプロフィールも紹介し、救急搬送された時点でのMRI検査の結果を再掲します。
父親のプロフィール
脳梗塞発症時、父親は64歳で母と二人暮らしでした。
仕事は小さな農業を営んでおり、
タバコは1日4~7本、
お酒は日本酒を毎晩2~3杯、
そして何より塩気の多いものが好きでした。
父親の詳細にプロフィールは、次の記事にまとめました。
よろしければご覧ください。
発症し、救急搬送時の容体
脳梗塞の発症は、自宅で夜中~朝方に発症したようです。
救急車で救急搬送された後、病院ですぐMRI検査を受けました。
その結果、右側の脳のほとんどが既に血流が滞ってしまったことより死んでしまっており、
左半身が完全に麻痺、さらに右半身も思ったようには動かせないという状況でした。
意識自体ははっきりとしており、認識機能も全く問題ない状態でしたが、
顔面右側の麻痺により上手く話すことができず、壊死した右脳が膨張してくることから
脳圧をあげないように右頭蓋骨の切り取り手術の可能性がほぼ100%必要になるとのことでした。
帰宅後、今後の行く末を家族で相談
前置きが長くなりましたが、下から前半記事の続きとなります。
母と姉、そして私の3人で話し合った結果、今後考えられる結果はつまり
- 無事に手術が成功し、リハビリでほとんど回復する。
- 無事に手術が成功し、リハビリを開始するが麻痺が残る。
- 無事に手術が成功するが、リハビリで改善するレベルではない。
- 手術は成功せず、この世を去る。
この4つのどれかになるのではないか、という結論に至りました。
嫌でもこんな考えた頭にまとわりついてしまいました。
払拭しようと思ってもこびりついて取れません。
今考えたとしても払拭できるわけがなく、仕方がないことですね….
時間も20時を過ぎ、母親も姉も大分疲れていたことからケータリングでお寿司とピザを頼み、一旦休息を取ることとしました。
相当お腹が空いていたのもあり、悲しい感情に反して美味しかった記憶があります。
こういう時の「ケータリング」はおすすめです。
食事をしている間も「リハビリ」や「手術の準備」、「お葬式」などのワードが頭から離れることがなく、永遠と食べながらも食べ終わった後も調べていました。
今だからこそ言えるが、備えあれば憂いなしということで
こういうのを調べて見積もり等取っておけば良かったと後悔
- リハビリ施設
- 葬式場
- 心の準備
会社に連絡
実は父が脳梗塞を発症した日は、三連休の初日でした。
東京で父が脳梗塞を発症したと母から連絡を受けた際は、「三連休の間に、3日間帰れる」と思っていました。
つまりそれは「3日間の滞在」の後に東京にまた戻ってくるという根拠のないものが頭の片隅にあったからだと思います。
しかしながら発症した脳梗塞は、「重症」であり、1週間が生死の山場と担当医から判断されてしまった今、こんな不安定な状態で帰るわけにはいきません。
会社へと連絡します。
両親や家族が倒れた時、会社への連絡方法がわからないという方が意外にも多いみたいなので別記事を作成しました。
よかったらご覧ください。
参考記事 親が急に倒れた時、会社を休むために報告するべき5つのポイント
そんなこんなで家族で「今後どうなるんだろうね、」といった相談や会社への連絡をしているうちに、本当に長かった1日目が終わりました。
2日目: 緊急手術との連絡
前日、寝るのが遅かったせいもあり、起床したのは10時手前でした。
ボケーっと30分ほど経過した10時30分頃、病院から自宅の固定電話に一本の電話がかかってきました。
は、早い、早すぎる。
前日の担当医からの症状説明で「数日以内に恐らく手術が必要だ」とのことでしたが、まさか翌日の午前中に電話がかかってくるなんて思いもよりませんでした。
正直、担当医から「重症です」と言われても実際には意識があり、コミュニケーションも取れたことで私の心や頭の中では気持ち的に「重症である」とは認識できていなかったと思うんです。
ただこんなにも早い段階で手術をすると連絡があったことで、一気に決心がついたというか、心構えをしないといけないというか、なんというのでしょうか。
こう、運転していて突然歩行者が出てきてヒヤッとして、「今度からあそこの交差点は本当に気をつけよう…」っていう時のような感覚に襲われたんです。
話を戻しますが手術には3時間程度かかるとのことで、少しグロテスクな内容になりますが実際の手術の内容を詳しくお話しすると、
- 頭部右側の皮膚を半分ほどめくり、手のひら大の頭蓋骨を切り出す。
- その後、皮膚を再度縫合し脳の腫れが引くまで一旦そのままの状態にしておく。
- 腫れが引くのは手術後から5日~7日経過したあたりが想定される。
この1~3までが担当医の方の経験上、「生と死を分ける山場」だということでした。
そして手術によって切り出した頭蓋骨は感染症予防?か何かのため、再利用はできないということでした。
腫れが引いた後、頭蓋骨を切り出した部分は人工の同じ形に切り取ったプロテクターを偽頭蓋骨としてはめれば、基本的には問題がないと説明を受けました。
電話を受けすぐに準備をし、車に乗り込み病院まで急ぎます。
病院に到着したのは11時30分頃、既に手術は始まっていたみたいで我々家族は待つことしかできません
手術は無事に成功
待つことおよそ2時間30分、時間にすると14時前に手術は無事に終わったと看護師の方から報告を受けました。
なるほど…であれば、ここでは何もできないので帰るしかない。
まだ時刻は14時過ぎ、仕方がないので家路につくことになりました。
手術終了の待機をしていた2時間30分が永遠のように感じて気疲れしてしまったこと、そして手術が無事に終わった若干の安堵感はありますが、これから生死の山場期間に突入するため、気は休まりません。
ですが、相当疲れていたのか帰宅すると3人とも長い昼寝をしていました。
体は正直なんですね…
起きたら既に夕方、明日の朝に備えて夕食を食べそのまま就寝しました。
3日目: 手術後初めての面会
不安なのか大して寝ることができずに家族全員が朝早く目覚めました。
午前の面会は10時からのため、合わせて面会の準備も整えます。
10時ぴったりに病院に到着し、日直の看護師さんを集中治療室前に設置されているインターフォンで呼び出します。
開頭手術という大きな手術後、初めて父に面会します。
シュコシュコと人工呼吸器が機械音を発している中、ベッドには頭が包帯だらけの父が横になっていました。
もちろん意識はなく、昏睡状態です。
手術のせいか全体的に体は浮腫んでおり、なんだか少し小太りしたような姿でした。
右脳がほとんど壊死してしまったことにより左半身が麻痺している状況でしたが、その左半身側の方が浮腫んでいる印象でした。
特に顔と頭に関しては本当に浮腫んでいるものの、顔の血色はいつもの父でした。
ここで担当の看護師さんから集中治療室内にある医師室に呼ばれ、手術を担当した医師からの話がありました。
担当医の方からの説明は一文一句明確なものではありませんが、このような内容でした。
集中治療室には随時7名 ~ 12名の他の患者さんも多く、患者の家族は面会以外に付き添いでその場に留まることもできないため、本日も様子だけを見て帰ることとなりました。
余談ですが、集中治療室というものはドラマや映画で見るように個別に分かれているものもあれば、大部屋のように何十人もの患者さんがいるようなところもあるんだと思いました。
そして冬と東北地方ということもあってか、毎日毎日大量の人が脳卒中などの脳血管系の病気で運ばれてくるみたいで驚きました。
やはり東北地方では寒くて、かつ漬物を代表するように普段の食生活で塩分が多いということで血管系の病気が圧倒的に多いみたいですね。
東京へ一旦戻る
実はこの日、三連休最後の日でした。
父は三連休の初日に脳梗塞を発症し、ここまでわずか2日間の出来事でした。
こういった流れで、一回東京に戻り週末にまた帰省することとなりました。
すぐに東京に戻る準備をし、夕方の新幹線に乗り込みます。
この新幹線の2時間~3時間の間で、一人になったこともあってか本当に悩みました。
新幹線の中で考える事
新幹線の中では、これから自分の人生がどうなるのかも含めて、ずっと頭がぐるぐるした状態でした。
「どうしよう…どうするべき?」
「どうしたら家族と自分にとって一番良いのか?」
というのは父親の手術が無事に終わり、現在は生死をさまよっている状態ですが、目覚めたとしてもかなりの麻痺が残っているわけです。
ここでの懸念点は、生死を境にした2つ。
1. 生死をさまよった結果、「生」だった場合
筆者である私自身は、医師でもなく、専門的な知識も有してませんし、健康オタクでもありません。
しかも担当医から伝えられて事でもありませんが、自分自身の感覚値として、
「半身麻痺は確実で、問題は自分で動き回るレベルにまでリハビリで戻せるのか?いや、かなり厳しいはずだ。」
「あの状態から通常生活を送れるほど回復できないだろう」
という考えになっていました。
ではリハビリを開始するには、いくらかかるのか?
どの期間リハビリをすればいいのだろうか?
リハビリ中、食事や排泄、その他自宅で発生しうる介護は母親一人で可能だろうか?
東京で仕事している場合じゃなくない!?
2. 生死をさまよった結果、「死」だった場合
縁起でもありませんが、生と死が50%対50%である以上、「亡くなってしまうかもしれない」という考えは頭に浮かばないわけがありません。
「….お、お葬式?」
「父と二人暮しだった母親はこれからどうやって生きていくんだ?」
「えっと….父親が死ぬ…?お正月に会った2週間前まで元気にしていたのに…?」
負の考えが連鎖的に広がってしまいます。
正直、今この記事を書いている途中でもなんだか胃がムカムカしてきました。
結果として2時間~3時間考えたところで何らかの次のアクションが見つかるわけもありませんが、1つ決意したことがありました。
「どうしようなんて言ってられないし長い間考えていることもできない。」
「姉はあまり頼りにもならない。長男である俺が少なからず最前衛でサポートをする。」
「サポートをする」なんて家族として当たり前だろと思う方、私自身も当たり前だとは思うんですが、やっぱり当事者になって腹くくんなきゃいけない時ってつらいですよね。
悲しい気持ちも相まって、私はつらかったです。
もし私と今同じような状況の方は、腹くくってください。
少し気持ちが楽になりますよ。
この日は三連休最後。
明日は勤め先に「現在の状況」について口頭で説明しておかなければなりません。
4日目:
翌朝、会社に出社してもソワソワしているようなフワフワしているような、日常のはずなのに非日常を感じているような感覚に襲われました。
多分ストレスや不安が最高潮だったんでしょうね。
出社後、上長を呼び出し、今後について話します。
2. もし、仮にその時がきてしまった場合は数週間ほど休むかもしれない。
既に父親が救急搬送されてから勤め先の会社には概要を伝えていましたが、必ず口頭で話した方が良いです。
※ この点において問い合わせが多かったので、別記事にまとめました。詳しくは以下の記事をご覧ください。
参考記事 親が急に倒れた時、会社を休むために報告するべき5つのポイント
運が良く(?)、ブラック企業が蔓延する日本社会の中ではかなり理解のある会社のおかげで了承いただけました。
5日目~7日目: 日常のような非日常生活
手術後、担当医からは「2~3日で意識が戻るでしょう」とのことでした。
結論からお伝えすると、5日目から7日目の3日間で父親の意識は戻りませんでした。
会社勤めの私は、通常であれば平凡な時間を過ごしたはずですが、この3日間は日常のようで非日常の生活でした。
なんていうんでしょうかねぇ。
気持ちが安らぐことはなく、母親には数週間に1度しか連絡は取っていないものの気付くと父親の容体を気にして連絡を取っていました。
母からのメールは毎回似たようなもので、こんな内容でした。
仕事が忙しかったこともあり、自分が不安だったということを除いては動きがなかった日々でした。
不安を解消するために実践したことがいくつかあったので、効果的なものをこちらで紹介しています。
参考記事 親や家族が病気の時、不安を解消するために経験者が実践した5つのこと。
そんなこんなで気付くと金曜日、前述の通り帰省する日です。
8日目: 容体確認のため帰省
朝8時頃の新幹線に乗り込み、昼前を目安に故郷に向かいます。
新幹線の中でも、「脳梗塞 リハビリ」や「右脳 半身麻痺」といったキーワードを検索しまくります。
そんなこんなしている内に母と待ち合わせしている病院へと到着し、面会の時間となります。
5日ぶりに見た父親は最後に見た姿と比べて、かなり様子が違うものでした。
1. やせ細っていた。
最後に見た姿は手術の翌日で、体が全体的に浮腫んでいたということもあり少し太っている印象でした。
しかしながらこの日の父は、なんだか脳梗塞を発症する以前の日常だった時と比べても痩せており、顔の頬もこけてしまっていました。
2. 顔が白く血の気がない感じ
毎日農作業をしていたこともあり、年中日焼けの度合いは強めの方でした。
そして最後に見た姿の、「色」という観点からは同じようなものでしたが、5日間を開けてみると顔は真っ白、上述のように頬がこけていたことも相まり、不安が強まります。
3. 呼吸をする姿が異様
手術後から呼吸をサポートするために人工呼吸器をつけていましたが、自発呼吸はしっかりとしていましたので、今までは普通の呼吸だったと思います。
ですが、この日はあたかも「人工呼吸器に強制的に呼吸させられている」ような姿でした。
具体的には「肺に空気を直接的に送り込まれ、抜き出されの繰り返し」といったイメージを想像してください。
痩せこけて、顔が白く、呼吸が異常
担当の看護師から医師室で、担当医師より話があると伝えられます。
医師からの宣告
パソコンのモニターに画像が表示される。
この時、担当医は濁した言い方で「夜中でも使って大丈夫です」と説明いただきましたが、死の宣告だったと後ほど気がつきました。
明確な言葉を使っての説明をしなかったのは気を使って配慮したと思っていますが。
つまりは非常に危険な状態で
「危篤です。」
ということだったのです。
こんなこと言われてしまっては、意気消沈です。
相当ショックだったのか、その日から2ヶ月しか経過していませんが、はっきり言ってほとんど覚えていません。
何を喋ったのか、どう過ごしたのか、時間は一瞬で過ぎ去ってしまったのだと思います。
9日目: 父親の死
そしてその時はきてしまいました。
翌朝8時頃、病院から一本の電話がありました。
病院まで車で30分、急いで準備して病院に向かいます。
病院から電話があり、病院に到着するまでおよそ1時間後、集中治療室のある病棟へと急ぎます。
部屋の前にあるインターフォンを鳴らし、看護師さんを呼ぶと
と言われ、医師室に連れて行かれました。
ここで私は悟ってしまいました。
なるほど。そういうことか。そうか、そうか、、、、。
およそ一週間の闘病生活でしたが、息を引き取りました。
病名は、脳梗塞による脳ヘルニアというものでした。
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